うつ病の発症から退職まで振り返り

    
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うつ病の発症から退職まで振り返り

僕は現在起業家として活動していますが、就職をしてうつ病になり、退職後に起業をしました。

この記事では、病歴の振り返りから起業前の退職まで、どんな足跡を辿ったのか、どんな気持ちでいたのか、というようなことを書いています。

もう1つの目的としては、人の記憶はやがて薄れていくため、自分のつらかった記憶を忘れないように備忘録も含めています。

僕がどんな人生を過ごしてきたか、僕の趣味嗜好が分かる記事になっていると思いますので、少し長いですが、時間のあるときに読んでみてください。

途中、内容がかなりダークな部分もありますので、読むのがしんどいと感じたらそっと閉じてください。

これで一生安泰だと思った

僕の幼少期は、人前に出るのが得意ではなく、漫画を描いたり、TVゲームばかりしているクラスでも目立たない存在でした。

高校では、ハードロックに興味を持ち、ギターやベースに熱中していました。

高校卒業後は、将来、何をしていいのか分からず、世間的に固い仕事と言われる公務員を目指すために公務員試験対策の専門学校に入学しました。

専門学校で授業を受けていれば、公務員試験に受かるだろうという甘い考えで通学して、遊び呆けていたので、卒業後は公務員にはなることができませんでした。

その後、公務員試験に再挑戦することを名目にフリーターをしながら、TVゲームばかりしていました。

専門学校卒業から5年が経ち、ずっとフリーターだったので、父に「どこでもいいから就職して1ヶ月分の給料をもらって来い」と言われたこともあり、自分でも「いい加減就職しないとあかんなあ」と思いました。

営業経験もなく、話すことも得意でもなかったですが、営業職の面接を受けるとすぐに採用され入社しました。

「営業なんてできるかな?」と不安がありましたが、仕事内容はそこそこ楽しそうに感じました。

しかし、面接時に土日休日と聞いていたのに、入社して初めての週末に「営業成績が上げられる自信があるなら土曜休んでもいいよ」と担当の係長にいきなり言われました。

もちろん土曜に会社を休む人なんていません。

入社2週間目になると退社時間がどんどん遅くなっていき、帰宅時間は23時が当たり前で、日付が変わることもよくありました。

早く仕事が片付いて帰ろうとしても「なんで帰るの?」と言われ、まったく早く帰れない空気が当たり前になっていました。

そんなブラック企業で数ヶ月働くと同期だった人たちはまったくいなくなり、僕一人になっていました。

成績の悪い人はどんどん辞めさせられ、どんどん新人を雇い、会社を回して、自転車操業みたいな企業経営であることはすぐに分かりました。

若くても、睡眠時間が短くキツイ仕事を続けているうちと、身体を壊して熱が出て、会社を数日休んでいるときに僕は思いました。

「こういうキツイ仕事より、やっぱり公務員になりたいなあ」

そう思うと気持ちを抑えることも割り切ることもできなくなり会社を退職しました。

退社の申し出に対して、会社はとてもあっさりで、日常茶飯事のようでした。

ブラック企業を経験した社会人は、学生時代とは違い猛勉強ができてしまうものです。

次の公務員試験まで時間がなかったこともありますが、たった4ヶ月の猛勉強の結果、あっさり念願の公務員試験に合格し、郵便局で働くことになりました。

郵便局である公務員は、

  • 残業もほとんどない(あったとしても残業代はもちろん支給)
  • 営業手当ももちろん全額支給
  • 福利厚生ももちろん手厚い
  • ブラック企業とは程遠い
  • 働き続ければ一生安泰
  • 退職後の保障も手厚い

世の中の人たちが求める安定という文字に相応しい公務員です。

「もう将来的に何も心配いらない!」

家族、親戚、友達などみんなが祝福をしてくれました。

しかし、数年働いているうちに世の中の流れが変わってきて、郵便局は公社化され、やがて民営化されました。

名前も日本郵便株式会社に変わりました。

僕は公務員になったはずなのに、いつの間にか民間企業にいる・・・。

でも、大企業だから大丈夫と思い、頑張って働いていました。

うつ病になったきっかけ

郵便局に入社から4年目、職場でずっと仲が良かった同僚が転勤になって、仕事の考え方や愚痴など何でも話し合えた同僚がいなくなりました。

同僚と何でも話し合えなくなったことで、発散ができなくなり、抱え込むことが増えて、ストレスが増えていきました。

他にも、職場の形態も変わってきて、やり甲斐や面白さもなくなっていってしまいました。

さらに、仕事は営業職のため、ノルマが達成できないと厳しい叱責を受けることが苦痛で仕方なく、誰も助けてくれない状況が続きました。

それに加え、その2年前にサービス開始されたファイナルファンタジー11というオンラインゲームが楽しすぎて、仕事とゲームだけの生活を送っていました。

毎日深夜2時くらいまでゲームをし、4~5時睡眠で仕事に行き、土日はどっぷりゲームという生活を2年続けていました。

ある日、体がすごくだるくて頭痛がひどく腕や胸が潰れそうになるくらい痛く、微熱も何日も続いていたので、病院で診断してもらってもらうと風邪だと言われました。

風邪薬、解熱剤、鎮痛剤を飲みながらも仕事に行っていました。

仕事は休みがちになり、仕事に行かないといけないプレッシャーに反して、毎日仕事に行くのが嫌で気が重く、家から会社に向かう足取りはかなり重くなりました。

だるさと微熱が続く体を薬で無理矢理抑制して、そんな状態で1ヶ月も仕事に行っていました。

仕事のストレスと現実逃避のためのゲームによる睡眠不足で身体は限界だったのかもしれません。

精神状態がどんどんおかしくなっていく

ある日の朝、目を覚ますと胸がすごく痛く過呼吸になり、呼吸することさえ苦しく、体温を測ってみると40度を超える高熱でした。

母に付き添ってもらい、近くの病院で診察を受けると、まだ風邪が治ってないと診断されました。

しかし、症状があまりにもおかしいので、母が「大きな病院へ行こう」と言ってくれ、国立病院へ向かいました。

予約もなしだったので、長時間待ってやっと診察してもらって、精密検査を受けることになりました。

その日で分かった検査としては、内科的には問題がないと診断されました。

とりあえず、1週間分の診断書を発行してもらい会社を休むことになりました。

翌週、残りの精密検査結果を聞くと、内科の診断ではまったく問題がないと言われました。

「こんなに不調なのにそんなはずがない・・・」と僕も母も思っていました。

それ以外に考えられるとすると、精神的な病気じゃないかなと言われ、家の近くの精神科に病院を紹介されました。

帰宅後、紹介された病院に電話してみると、予約が来月まで埋まっていてすぐに診察してもらうことはできませんでした。

診断書の期限も切れるので、他の精神科に通院し、診察してもらうと「心も体も疲れている」と診断を受け、自律神経失調症ということで1ヶ月分の診断を発行してもらいました。

薬を処方され、しばらくしたら治ると言われました。

会社にしばらく休ませてもらう連絡をし、診断書の郵送が終わると「しばらく会社に行かなくてもいい」思えて気持ちが少し和らぎました。

しかし、処方された薬を飲むと昼間も眠くて仕方なく、長時間昼寝を繰り返し、夜は眠れず、変な時間に寝たり起きたりするようになり、生活リズムが乱れてきました。

とにかく体がだるいので、寝てばかりの生活が続きましたが、病院で「体がつらくのに無理しなくて良い、寝られるときに寝て起きられるときに起きれば良い」と言われたので、その通りで良いと思いました。

会社に行かなくて家にいると予定もなくなり、どんどん生活が乱れ始め、本格的な休職に入っていきました。

寝てばかりいて食事もまともに食べない生活が続き、両親に「仕事に行かなくても規則正しい生活をしなさい」と言われ、分かっているのにできない不甲斐なさから、それを聞くのが嫌で両親と接触しないように昼間は寝て、通院以外外出しないようになってきました。

そんな生活が数ヶ月続き、症状が良くなってきているとはとても思えませんでした。

誤診で危険な状態になっていく

症状は改善されず、2週間に1回の通院をいつものようにしていると、病院の先生がおかしなことを言い始めました。

  • 「今の仕事は君に合っていないんじゃないか」
  • 「他の仕事を探した方がいい」
  • 「まだ診断書は必要か」
  • 「君は大人になり切れていない」

かなり訳が分からなくなり、ショックで頭がパニックになりました。

病気を治すために通院しているのに、なぜこんなことを言われないといけないのか、ここに通院していても治るんだろうか、不安になってきました。

帰宅すると、不安感は急加速し、先生のおかしな発言がおかしいのではなく、自分がおかしいのかと思い始めました。

変な気分になってから、

  • なんだか何をしてもつまらくなった
  • 何かしようとすると疲れるだけで楽しくなくなった
  • 何かする気力がなくなった
  • 興味があったことから興味がなくなった
  • やり甲斐や喜びが感じなくなった
  • 自分に自信がなくなった
  • 意味もなくイライラするようになった

このような気分になっていくと、さらに心は落ち込み、引きこもりで人と一切会うこともなくなり、時間を持て余し考えてはいけないことばかり頭に浮かんできて、過去の嫌だったことを思い出したり、同じことばかりを考えてしまうようになりました。

さらに頭痛やめまいがひどくなり、体が鉛のように重くなり、寝てしまうと起きたいのに起きられない、目が覚めていたとしても何をするにも何もできない、むしろ何もしたくない状態で抜け殻のようでした。

昼間起きていると両親が言うことが嫌になり、昼間は寝て両親と接触しない夜に生活し、誰からも何も言われない環境を自ら作りました。

  • 「何のために生きているんだろう?」
  • 「生きている意味はあるんだろうか?」
  • 「もし死んだら両親や周りの人はどうなるんだろう?」
  • 「生きている必要がないなら死んでしまいたい」

会社は元気になってから復職してくれたら良いと言ってくれているが、元気になるまで無限にあるかのような必要のない時間が与えられ、どんどん気持ちが落ちていき、気が狂っておかしくなりました。

おかしな考えを持っている自分が嫌になり、何もかも嫌になって自殺方法をあれこれ考えても、怖くて実行できず、死んでもいいのに自殺もできない自分が情けなくてもさらに自分が嫌になりました。

さらに落ちてしまうと、起きていても何もせず、心ここにあらずのような感じになって、感情さえもなくなっていきました。

うつ病と診断を受け治療が始まる

2ヶ月くらい経って、倦怠感が少ない日もありましたが、狂った症状は変わらず、「あの病院に行くとおかしなことを言われるので、あの病院には行きたくない」と思うようになりました。

母が「病院を変えてみてはどうか」と言ってくれましたが「もう病院なんて行きたくないし、どうでもいい」と思い、症状改善に対して投げ出していました。

少し元気な日に母と会話し、少し前向きに考えることができて、以前に行った国立病院で紹介された精神科に電話して予約を取りました。

予約は来月になりましたが、今さら焦りも何もしないので、そのまま予約をしました。

新たに予約した精神科の病院を受診し、「何が病気のきっかけになったのか」「今どんなことを思うか」など、かなり長い時間をかけて先生からいろんな質問や話をしてもらえました。

こんなに人と話すことが久しぶりで、うまく話せなかったけど、伝えたいことや想いは伝わったと想いました。

なぜか分からなかったけど少しほっとしました。

抱え込んでいる自分の気持ちを吐き出せたような気がしました。

そして、「うつ病」と一番恐れていた病名が付き、自分でも信じられませんでした。

これまで「うつ病」には抵抗があり、他人には知られたくないと思いました。

でも先生は「今ではうつ病は誰でもなる病気だからぜんぜん大丈夫」と言ってくれました。

「診断書にうつ病と書いてもいい?」と聞かれ了承し、自分でもうつ病であることを受け入れました。

帰宅後、母と新しい先生のこと、うつ病のこと、いろんな話をいっぱいしました。

母は「ここに最初から通わせるべきだった」と言って後悔していましたが、僕は少しでも前向きに考えれるようになって良かったと思いました。

ここに来てようやく専門医による治療が始まりました。

うつ病治療期間を重ねて復職へ

新しい病院に2週間に1回通院することになり、薬も変わりましたが、新しい薬に慣れず、薬の副作用がとてもきつかったです。

口の異常な渇きがひどく、常にそばに水を入れたコップを置いておかないと不安になるくらいで、夜起きると舌が口の下にくっついているときもありました。

さらに便秘がひどく、調子が悪いと10日くらい便が出なくて、お腹が張って苦しいときも多かったです。

診察の方は、先生が今の症状について細かく聞いてくれます。

普段の症状や今はどんなことを考えているか、どのように治療していくかなど明確に教えてもらえるので、とても安心でき元気をもらえます。

「今はとにかくしたいことだけをすればいいし、やりたくないことはやらなくいい」「しんどいなれば横になればいいし、眠気があるときは無理に起きている必要もない」と言ってもらえます。

「うつ病は、症状が少し良くなるとまた後退し、目に見えない程度で少しずつしか回復しないので、時間をかけてゆっくり治していきましょう」とも言ってもらえます。

前の病院では、こんな会話は一切なかったです。

薬の副作用はきついものの、もう死にたいなんて思うことはなくなりました。

死に直結するような考えてはいけないことも考えなくなり、会わなかった友達とも会う余裕が出てきてました。

何回か通院するうちに、うつ病の極期を抜けて回復期に少し入ってきたように思えるようになって、これから少しずつ回復していけそうでした。

前向きになれてきたと思っていたのに、怖い夢を頻繁に見るようになってきました。

誰かに追いかけられ必死に逃げる夢、家族が殺され一人ぼっちになる夢、自分が首吊り自殺している夢など。

悪夢から目が覚めるといつも涙が出ていました。

悪夢を見ているときは、気持ちがいつも極限状態で泣いていたのです。

そんな夢を何回も見るようになってきました。

繰り返されることで怖くて頭が狂いそうな感覚に襲われ、「怖い!」と母に伝えて、母の前で泣いていました。

病気が少し良くなってきているとぬか喜びしていたのに、扉が閉ざされたような気がして、また気持ちが落ちていきました。

病院の先生が「元気になってくればそういったこともなくなってくる」と言ってくれて励ましてもらえたので、少し安心しました。

その後、元気なときは元気だったけど、予兆もなしに急にしんどくなることとのギャップが激しかったです。

そして、治療を繰り返し、体調が悪くなって休職して2年半が経過しました。

ちょっとずつ病気が良くなってきていたので、先生に「そろそろ復職してはどうか」と言ってもらえました。

僕はちょっと不安があることを伝えると「病気が完全に治るまで待っていては復職はどんどん遠のくので、復職してどうしても休みまないといけないときは休めばいい」と言ってもらえました。

会社の上司にもそのように伝えると納得してもらえ、復職することとなりました。

復職すると最初は体力的に厳しいともあったけど、まずは簡単な仕事からさせてもらえたので、精神的な問題はなく、ストレスだと思うこともありませんでした。

慣れてくると普通に仕事をできるようになり、自分自身でも安心していました。

休職と復職を繰り返し退職へ

復職から4ヶ月間、しんどくて休むことが多少ありましたが、そこまで迷惑がかかるほど休むこともなく出勤できていましたが、お盆休みの後に休むことが増えてきて、月末に上司から「無理せずにまた休職してみて完全に治して働ける体を作ってまた復職してほしい」と言われ、会社の方から休職命令が出ました。

再び休職に入って、家にいると気がゆるみ、しんどくなるとすぐに横になったり寝てしまったりするので、徐々に生活のリズムがおかしくなってきました。

でも、前のようにうつがひどくて突き落とされるようなうつ状態になることもなかったので、少し休めば復職できそうな感じでした。

復職に向けて生活リズムを整えるために、病院デイケアを受けたり、復職支援の施設に行ってトレーニングしたりして、復職をしたけど、またしばらく働くと休職をするという流れを繰り返し、うつ病発症から10年の月日が流れました。

最終的に主治医に復職の許可がもらえても、会社の産業医にNOを下され、苦労して入った郵便局という会社にあっさり解雇されてしまいました。

このことを知った周りの人たちは、それはもうたくさん同情してくれました。

「病気にさせといて解雇なんて酷すぎる!不服申し立てしたら?」と言ってくれる友人もいました。

でも僕はあの会社に戻れるとしても戻りたくないと思っていました。

会社に戻ればまた症状が酷くなる恐怖を感じていたからです。

どちらかというと、職を失ったことよりも、もう二度とあの会社に行かなくていい解放感がありました。

その後、治療を続けると体調はみるみる改善し、6ヶ月後には病院の診察が終了するほどまでになりました。

郵便局を解雇されたことが、うつ病の呪縛から解放されるきっかけとなり、自分でも驚くほどの早さで体が楽になっていきました。

というわけでここまでで、うつ病の発症と退職について締めたいと思います。

途中、かなりダークな内容もあったと思いますが、こんなに長い文章の記事を読んでいただきありがとうございましたm(_ _)m

その他の内容は、プロフィールにまとめていますので、よろしければ見てみてください。

古川英宏のプロフィール

この記事は、できる限り当時のままで書いていますが、時代の変化や状況に合わせ加筆修正をしています。

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